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2015年01月15日

勇気を出して初めての三木市史跡(2)

勇気を出して初めての三木市史跡(1)」に続きまして、兵庫の旅の最終日に行って参りました「三木市の史跡」の後編です。

そもそも三木市に来た大きな理由の一つでもあるのが「竹中半兵衛の墓」に参ること。
彼の故郷である岐阜県垂井のお墓には何回かお参りさせて頂いたのですが、死去した地である兵庫にもお墓があるという事で、ぜひ行ってみたいというのが長年の願いでもありました。

竹中半兵衛墓

予想以上にVIP待遇だった。


地元岐阜ではわりとしっとり(?)お墓の半兵衛ですが、まさかのこの三木でのもてなしっぷりにびっくりしました…。ブドウ畑の中にあるという事で見つけにくいかな、と思ったら全然そんな事もなく、むしろ「ココですよ」と全面アピール。
江戸時代の儒学者・山田翠雨さん作の「半兵衛に捧げるポエム」まで頂けて、しかもたくさんの方にも参って頂いているようで、故郷の奥さんやお子さん(重門くん)にもお伝えしたい!実に感慨深い!

山田翠雨

三木合戦の中盤、かねてから結核を患っていた秀吉の軍師・竹中半兵衛は、一度は療養のため京都にいたものの、「どうせなら現場で死にたい」とプロフェッショナル軍師の生き様を見せながら天正7年(1579年)6月、36歳の若さで陣没します。
侵攻戦の地で、しかも敵であるはずの竹中半兵衛のお墓がこのように大切にされているのは嬉しくもあり、不思議な気持ちにもなります。
これが歴史ロマンなのかもしれませんね(。´Д⊂)うぅ…。


竹中半兵衛墓

もう一つあると言われる半兵衛の墓。
栄運寺」というお寺の中にある小高い山にあるのですが、こちらは知る人ぞ知る感じのたたずまいです。
詳細は不明なのがまたミステリーを感じます…。



戦の中で命散る者もあれば、戦のけじめをつけるために命を散らす者もいる。
開城条件として切腹を選んだ三木城主・別所長治の史跡も、もちろん各地に点在しております。

別所長治首塚

別所長治夫妻の首塚。
切腹の際、後事を託された「雲龍寺」の住職によって埋葬されたと伝えられています。
お寺の正面にはたっぷりと駐車場が用意されていて、車移動にはとっても便利。こちらだけでなく、他の史跡も比較的車が停めやすくてありがたいです。

別所長治墓

別所家の菩提寺である「法界寺」のお墓。
別所長治や家族、家臣までもが手厚く葬られていて本当に真摯さを感じます。
現在もこうやってお寺さんや地元の方が管理されていらっしゃる様は、歴史巡りをしていて常々リスペクトさせられる場面の一つなんですよね。



様々な戦局が駆け廻り、堅城三木が秀吉軍と睨み合って二年。
一時は勝算ありに見えた情勢も、元々は多勢に無勢である別所軍。小さな拠点は次々と秀吉軍に攻略されていき、決死の奇襲も友軍の損害を広げる結果となりました。
元々別所側も一枚岩ではなく、若き長治を支えていた一族の重鎮であり叔父、毛利側に組して支城を守備する吉親(よしちか)は徹底抗戦を、織田側に組して出奔した重棟(しげむね)は降服勧告を叫びます。
頼みとしていた毛利軍からの糧道はことごとく断たれ、拠点の壊滅した三木城は秀吉軍にぐるりと囲まれ、兵や民がひしめき合って飢えの限界を迎えていた三木城の籠城戦。
我ら一族の命をもって城の者らを助けたまえと天正8年(1580年)1月、ついに長治は降服を決断します。


-----------------【突発三木城マンガ(2)】-----------------

三木落城

※クリックすると原寸サイズで開きます。
(ちょっと大きいです)
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別所長治辞世の句

「今はただ うらみもあらじ諸人の いのちにかはる我身とおもへば」
長治の辞世の句の歌碑は、三木城址と先ほどの法界寺に建っています。
妻の照子や弟の友之、共に自刃した一族郎党らの辞世の句も石碑に掲げられており、彼らの想いを歴史が語ってくれるリアルな情感がこみ上げます。
ここまで臨場感が伝わってくる辞世の句もなかなかありません!すごいドラマを持っている言葉だと思います。


別所長治像

そしてイケメン2人目。(in法界寺)

三木城址に続いて2人3人とぐぐっと長治サマを推してくる三木民の心意気。

ラノベ別所長治

おおっと!さらにイケメンが駅前にも!

ラノベ風味のイケメン長治サマ。
敵側なのに半兵衛&官兵衛もイケメンにしてもらって、さらに秀吉も何だか爽やかになってて…これは役得!(?)


三木合戦を始めとした中国攻めというのは、華やかな武者たちが鮮やかに戦場を駆け抜ける爽快感はなく、陰謀や裏切り、二転三転して入り乱れる敵味方の勢力図、当代を彩った武将たちが無念をもって散っていく何ともやりきれない戦国の無常さが群像劇のように繰り広げられる数年間です。
それゆえに凝縮された人間ドラマのようなものが史跡にも込められており、何より三木市の地元の方々が「三木の歴史として伝えていこう」という丁寧な管理をなさっている事に、非常に感銘を受けました。
中国攻めの概要を理解しきるのはとても大変で若輩者の私はまだまだ勉強不足は否めませんが、長年行ってみたいと思っていた三木市の史跡にまずは行けただけでも大変光栄です。

三木市観光

「三木市観光協会(中央公民館と同じ敷地内)」で観光パンフレットやカタログを頂けます。おみやげグッズはもちろん、ミニ冊子からガッツリ書籍まで、地元に根差した発行物も揃えてありましたので三木攻めの歴史本(はじめてでもやさしい方)を買わせて頂きました。
こういう「おらが村の昔話」的なコンテンツって大好きです〜ヽ(*´∀`)ノ



日も落ちてすっかり帰宅ラッシュ、安全運転を心がけてヒイヒイ言いながら(…)山道&坂道を越えて三宮まで戻りました。
次回はぜひ、別所長治公の追悼法要、伝承の半兵衛の陣跡、神戸ショッピング、甘味巡り、温泉、USJ(兵庫じゃない)などさらにたくさん遊ぶために再び兵庫に来れたらいいなと思える良い旅になりました。


二回に渡っての三木市史跡のコラムを最後までお読み頂き、ありがとうございました!




2015年01月14日

外部連携アイコンを設置しました

ブログのタイトルイラスト下・右上の部分に、このブログと併用して運用している「twitter」と「Instagram」のアイコン&リンクを設置しました。
どちらのSNSもこのブログを始めてから一緒に使い出した初心者っぷりですが、まったりと運用しております。
何というかインスタグラムの方はすでに食べてばかりとなっております…。
どちらも楽しく運用していきたいと思います〜!




posted by スミ at 07:54 | Comment(0) | 更新内容

2015年01月11日

勇気を出して初めての三木市史跡(1)

前回のコラムから引き続いての秋の兵庫旅は世に言う中国攻めのハイライト、たくさんの歴史ドラマも生まれた「三木市の史跡」へ行って参りました。

旅もいよいよ終盤、前日には有馬温泉で英気を養いアクセスに便利な三宮駅からレンタカーを借りていざ三木市へ!
神戸市と三木市は隣同士だし、車を利用すれば史跡巡りもしやすいだろうし〜街中だし何とかなる〜ヽ(・∀・)ノ

何とかなる気楽さがまったくなかった。

アップダウンを繰り返す坂道・山道にも普通に住宅街が軒を連ねており、初めての道とレンタカーのぎこちなさも相まってスゴイ緊張感
これまでも史跡巡りでは車を利用しており、とんでもない山奥やらヘアピンカーブやら田んぼ道なんかも経験してきましたが、山道を越えて盆地、住宅地、すぐに山道にトンネル…という「街&山地&盆地の合わせ技」の神戸市の地形には本当に感慨深い所がありました。
確かに、神戸の繁華街である三宮も目前に山が迫っており、観光スポットの異人館は小高い丘の上まで登っていくような…。

三木市道中

地元の方の山道運転の手慣れっぷりがハンパないです。


いつか歴史の先生がおっしゃっていた事を思い出したのですが、戦国時代、西日本から中国地方を平定しようとするとやたら時間がかかる大きな理由が「地形」と「地方豪族」の攻略の困難さであるという事。
平野が少なく、山地と盆地を繰り返す近畿からの地理はいかにも進軍に時間がかかり、そして山を越えてようやく集落に出たと思えば、そこには地方豪族がガッツリとスクラムを組んでなかなか拠点制圧を許してはくれません。
いつもは自立心旺盛で地元でブイブイ言わせてる彼ら。相対する二大勢力である織田方と毛利方の両方ともに同盟を結んだり、かと思えば途端に反故にしたり、実にしたたかに戦況を立ち回っておりました。
戦においてはそつがない明智光秀ですらも、中国攻めの緒戦においては見事に返り討ちに合ってるぐらいですので(黒井城の戦い)ココら東播磨一帯を仕切る頭(ヘッド)の別所さんの拠点「三木城」が全然落ちなかったのも中国攻めの難易度の高さを物語っています。


三木合戦

そんな私も地理のレベルの高さにヒイヒイ言いながら(…)無事三木市に到着。
秋も深まり紅葉の季節、途中で寄った「道の駅みき」の売店のお姉さんが「今の時期、紅葉を見るにはドライブが最適よ〜」と教えてくれただけある素晴らしい山間の景色…!
三木市の史跡は神戸電鉄「三木駅〜三木上の丸駅」を基点として広がっている感じですが、やはり少し距離があるので、たくさん回るには車移動が良いようですね。


秀吉本陣跡

三木攻めのマスト史跡の一つ、秀吉本陣跡!

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小高い山の上に陣を張り、南西の三木城を睨む形でドドンと据えられています。比較的登りやすい山で、何より「平井山ノ上付城跡」として史跡としてとても丁寧に整えられているので非常に快適。
訪れる方も多く、歴史巡りの方以外にもウォーキングやハイキングの方々、七五三のお参り帰りであろうお着物やスーツの方々(陣跡にご利益があるのかな…)なんていう様々な方がいらしておりました。

秀吉本陣マップ

史跡のふもとで無料配布してあるマップ。
そうそうたるメンツで三木城を囲み、たっぷり揃えたコマを惜しげもなく配置する秀吉らしい確実な采配ぶり。
近くに竹中半兵衛の陣跡もあったそうですが、時間切れで断念…。次回リベンジ!


対して防御側、秀吉本陣から南西に位置するマスト史跡。
「三木上の丸駅」のちょうど上側に広がる小高い山の居城。

三木城址

東播磨八郡を束ねる若き君主・別所長治の居城、三木城跡!

三木城址地図

敷地内に様々な建物が建ってはいますが、随所に見られる城跡らしいオプション、そして何より眼下に広がる三木市の風景。

三木市風景

まさに三木市を一望!
各地の陣容すら手に取るように分かるだけに、睨み合いのジリジリ感が伝わってくるようです。


織田軍の宿願でもある西日本の制圧。
大軍で侵攻する遠征軍を率いるのは、今をときめく侍大将・羽柴秀吉。
現在の兵庫県にあたる播磨の国の豪族・大名たちはなし崩し的に織田軍に投降する者、なおも抵抗を続ける者、戦局を読もうと策謀する者それぞれでした。
当初は織田方に組していた別所勢、天正6年(1578年)に秀吉が播磨入りしたタイミングで、何と周囲の諸勢力を引き連れて一斉に「反織田」に転じます。
今ここに、三木合戦の火ぶたが切って落とされる…!
拠点制圧戦&籠城戦は二年もの間続きますが、その間にも戦況は目まぐるしく変化していきます。
昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵…まさに戦国の縮図のようなとんでもない勢力相関図。

-----------------【突発三木城マンガ(1)】-----------------

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※クリックすると原寸サイズで開きます。
(ちょっと大きいです)
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ヤダ…!長治様イケメンすぎる…!

三木城址にたたずむ、凛々しい騎馬武者然とした別所長治公の銅像。当時22歳だっていうんだからイケメンでも仕方ない(どういう…)
とっても立派なたたずまいで、その前に設置してあった手作り顔出しパネルとセットで良い味出してます。

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一つの戦局、一つの選択、ほんの小さな変化が戦場を複雑化し、思いもよらぬ結末を引き起こす。
中国攻めの面白くもあり、そして恐ろしくもある所であるとつくづく感じます。
籠城戦と兵糧攻めという戦法を採った別所長治と羽柴秀吉。次回は(2)として続きの三木市史跡巡り後編をご紹介していきたいと思います!